ようやく退院! 帰ってからは癌の痛みとの戦いでした
9月の終わり、父は1か月の入院を経てようやく家に帰ってきました。
一緒に住んでいる私の娘、父からしたら孫ですが、大好きな孫と久しぶりにゆっくり過ごせてとてもうれしそうにしていました。まごもじーちゃんが帰ってきてとても嬉しそうで、毎日父の所へかけつけて遊んでほしそうにニコニコしていました。
穏やかに家にいて化学療法を通院しながらやってもらって過ごそうと思っていたのですが、なかなかそうはいかない。特に辛かったのは癌の痛みでしたね。
前回記事です
父は退院する少し前に、なかなかコントロールのつかない痛みを「緩和ケアチーム」という病院内の痛みをメインに癌やその他の病気からくる苦痛を専門に診てくれるチームに来てもらっていました。疼痛緩和専門の医師、専門あるいは認定看護師、薬剤師などがチーム内にいて、父のところにきて色々とお話を聞いていただきました。父が最期を迎えたのは緩和ケア病棟だったのですが、緩和ケア病棟に移るまでに非常にお世話になったのがこの緩和ケアチームの方々でした。
父は入院してからロキソニンという最近では薬局でも購入できるものを内服し、一時痛みは和らいだようでした。しかし時間とともに徐々に痛みが強くなってきて医療用麻薬を主治医の先生に出していただいていました。それでも痛みは強くて緩和ケアチームに来てもらったという流れでした。ただ来てもらったのが退院前日、痛みで移動がなかなか困難な父の代わりに看護師であれば…ということで私が代わりに外来に通ってお薬をいただいていました。
父は医療用の麻薬「オキシコドン」というものを内服していました。 癌の痛みに麻薬を使うというのは今でこそ随分世間に広まってきており、抵抗を示す患者さんは減ってきた印象を感じます。が!父はそうではありませんでした…。
父の辛いところは腰の骨に転移があり、起き上がったり座っていると痛みが強くなってくるのです。なかなかこの「動くと痛い」というのはコントロールが難しい。
父は大腸癌になる前からソファで1日寝て過ごすのが普通でした。
しかし退院してからはソファには病院のベッドのように柵がないので自力で起き上がらなければならないし、ふかふかしてかなり力がいるのです。無理に助け起こそうとすれば痛みが増すようで、「痛い!」と言って振りほどかれました。
トイレに行く、ご飯を食べるなど生活動作に合わせて痛みが来るので、そのたびに「レスキュー」と言って痛みが強くなりそうな時に前もって痛み止めを追加するようお薬をいただいていました。ただ、父は根っからの医者嫌い、薬嫌いでレスキューを使うことにものすごく抵抗があるのです。私や母が勧めても拒否、痛い痛いと言ってトイレに行きたいと言い出してから2時間くらい痛みで起き上がれずにいたこともありました。
レスキューを飲むことで痛みが和らいで、生活が少しでも痛みのないものになっていけばいいのに、まるで毒でも盛るかのように拒否をするのです。観念して自分から飲むこともあり飲めば一時的に調子が良いこともあったのに。何度説明しても元から人の話を聞かない、信用しない人、医師や看護師さんならばもう少し聞いてくれたのかもしれない…。家では誰の言うことも聞かない…。
父の痛みとの闘いは、私たち家族にとっても辛いものでした。痛がる父を見るのも、薬を飲んでくれない父も辛い。人工肛門の交換も毎日と指示されたものですから、仕事から帰ってきて、家で慣れない人工肛門の交換。しかも人工肛門の周りが膿んで穴があいたのでしっかりその中も洗うように指示されている始末。交換している間、娘も眠くなる時間ですから私にくっついていたいしぐずる。父は体勢を変えるのに痛がって家族に当たり散らす。父も家族も毎日疲弊していきました。
退院して1週間後、初めての受診。人工肛門の周りが膿んでいたのでそこを見てもらうために病院へ行きました。これもまた大変。癌患者さんって本当に通院するのも大変…父を見ていてそう思いました。だって起き上がるのにも時間がかかるのに、病院へいくなんて!ものすごいミッションに感じていました。
続く
人工肛門の周りが膿んだ時のお話のある記事です↓
人工肛門のケアって大変?! 新たな戦いの始まりでした②
父の人工肛門の周りに膿んでる場所があり、毎日洗浄となり…
洗浄って、膿んだところを注射器みたいなので生理食塩水をピューっと圧力をかけて先生は洗っていました。
人工肛門の袋(装具といいます)を交換するタイミングで先生を呼んで洗浄してもらうのって、絶対に看護師さん達手間だったと思う…。
前回の内容はこちらをご参考ください
父を担当した看護さんたちの苦労はこんな感じだったと予測します。
- 先生といつ処置をするか時間を合わせる(これも気を使って大変)
- 先生が来るまでに装具を剥がし人工肛門周囲のシールのべとべとや便を洗い流して先生を待つ(逆に先生のことは待たせたくない)
- 先生がすっとくればいいけど来なければ待機。父もお腹をタオルで隠して待機(患者さんを待たせるのもいや)
- 先生の洗浄に付き添って終わったらもう一度きれいにして装具をくっつける(病院の中でケアする時って、人工肛門のサイズを測って、写真を撮って、装具に丸いシールみたいなのがついているのですがそれを測ったサイズに合わせて切って…。慣れている看護師さんだとしゅっと切れるけど、私はそのサイズ合わせに何回もやるから時間かかったな…(白目))
- うまく切れたらはっつける
- まあまあたくさんのごみを片付け(剥がした装具のシールにどれだけ便がしみてきているか測定して写真撮る模様)
- 装具を交換した時の状況や人工肛門のサイズ、皮膚の状態などなどカルテに記録
毎回毎日父一人のためにこんなに手間がかかって恐縮ものだったのに、なんと父の人工肛門に新たなるトラブルが。
…便もれするの( ;∀;)
- 人工肛門によくあるトラブルが、人工肛門のシール部分のところに便が潜り込んだり、便でふやけてはがれてきて起こる便漏れ
- 人工肛門周囲の皮膚に装具が合わなかったり、便が潜り込んだりして皮膚について荒れちゃったりする皮膚トラブル
漏れてしまうと、どうして漏れたのか原因を看護師さんたちが相談して、原因をなくせそうな装具を用意してきてくれるのだけど…。
毎日面会に行くたびに装具が変わってたんですよね…( ;∀;)
最初はきれいな丸形でぺらぺら、ある日は楕円形になったり星形?になったり。さらに丸形に戻って厚みがあってベルトがつけられるもの。さらにさらにツーピースタイプと言って、シールと袋が分かれる装具に。時々アクセサリーと言って、粘土みたいなのをこねこねしていい感じに人工肛門の周りにくっつけてみたり。
人工肛門に詳しい看護師さんが多くいる病棟でしたが、やむを得ず「皮膚・排泄ケア認定看護師」さんという、要は人工肛門のエキスパートを毎度呼んできて相談してくださいましたが、父はなかなかの困難患者さんだったようで…。何度もお見かけしたなぁ。
私の少ない経験上、こんなに毎日装具変わる人見たことないべ?!!
この経験で私はこんなに装具ってあるんだなって勉強になったな…。
どうも父は人工肛門がお腹からあんまり出ておらず、装具の下に便がもぐりやすく、さらに寝たときはぺったんこだったお腹が座った時にぼんっと出て皺になった挙句、人工肛門の上に肉が乗っかって装具がずれやすいという厄介系だったようです。細いんですけどねぇ…。
お金ののことは改めて記事にしようと考えていますが、装具1枚1000円とか超えてくるものもあって、毎日交換となると1か月3万円?!装具の値段によってはどえらい出費になるんですよ…身体障害者手帳の申請でいくらかは返ってきますが3万円は確実に大幅オーバー!!装具だけじゃなくて、シールを剥がす除光液みたいなの(リムーバー)とか、人工肛門と装具の間にどうしてもできる隙間をふさぐパウダーとか、もろもろ消耗品もお金かかってくるし、そもそも医療費もあるでしょ、装具の値段聞いて、目ん玉飛び出るかと思った!
便漏れで夜に装具の交換になって父は寝不足になり、また装具の交換で体勢によっては痛みを訴えることがあったりで、なかなか大変な日々に戻っていき…。
いやいや、これで帰ってきても家でこの大暴れな人工肛門見れるのかい?母と私は不安でいっぱい。どの装具にするかも決まっておらず、業者さんに最初に頼んだものは使えず大量の在庫あまり。
先生と看護師さんたちが懸命に人工肛門をケアしてくださったおかげで、膿んだところも少しずつ良くなっていき、父の手術の傷も癒え、食事もとれるようになってきたため退院を考える時期になっていきました。体調もよさそうということで最初の化学療法を受けて帰ることに。
68歳と若く大腸がん以外に目立った病気もなさそう、あちこち転移があるためしっかりと効果のあるものをということで、FOLFOX+ベバシズマブというお薬の組み合わせが選ばれました。このお薬は中心静脈ポートを使用する薬剤だそうで、この時を見越して手術の時に一緒に埋め込んでくださったのです。
抗がん剤や吐き気止めなどをまるっと半日くらい投与して、終わったら携帯用ポンプに詰め込まれたお薬につなぎ変えます。お薬は風船に詰め込まれてしぼむ力を利用して体内に入ってきます。なくなるまで約72時間…だったかな、鎖骨の下の中心静脈ポートに刺さった針を抜いて終わりです。この次からは外来で日帰りで点滴を受けて、携帯用ポンプを持ち帰って家で針を抜くという流れになるそうです。針を抜く指導もしていただき、母は「無理!」と言っていましたが一応勉強して…。私が夜勤の日とか困るもんね…。
さて問題の人工肛門のほうですが、退院前々日にはなんとツーピースタイプで一番高価なものがお腹にくっついていました。それだけでもどきどきしていたのに、さらに指導されたのが、2,3時間ごとに袋を外して人工肛門のまわりに撥水性のあるパウダーを振ってくださいということでした。え、2,3時間おきに、自宅で?!袋の取り外しがなんかもううまくいかんし、夜もやるの???膿んだところに便が入らないようにという作戦のようですが、それはしんどい、明日退院だし私も仕事があるし…母にできる?
人工肛門を造ってご飯が食べられて、元気が出てきて化学療法に効果があって…。希望が見えかけていた退院後の生活、すでに暗雲垂れこめてきたぞ…。家に帰って母につたえるとわかりやすく落胆。
ただ、その翌日、退院予定の前日でしたが、看護師さんたちの間で一生懸命相談してくださって、毎日交換してしっかり洗っていく方法に決定しました。選ばれた装具はちょっと楕円で、シール部分が厚みがあってベルトをひっかけてお腹をしめるようにし、お腹の皺をぐっと抑え込む作戦だそうです。
そうして何とか父は退院を迎えることになりました。父の人生初の入院は約1か月間となり、残暑の中、秋の気を感じる9月の終わりになっていました。
続く
人工肛門のケアって大変?! 新たな戦いの始まりでした①
平成30年9月7日に人工肛門を造るのと中心静脈ポートというものを埋め込む手術を受けた父は、麻酔から覚めた手術台でひと暴れした後は、一晩中おとなしく過ごしていたようです。
前回の記事をご参照ください(;´д`)
手術の翌日は土曜日だったため、私と夫と娘、そして母とともに恐る恐る面会にいきましたが、何もなかったことを聞いて心底ほっとしました。
父の病室へ行くと、すでに父はトイレにいったり水分も許可が出て飲んだりしていて、t照れたような笑顔で私たちを迎えてくれました。大好きな孫もいるからなおさらです。もともとの癌の痛みに加え手術の傷の痛みもあるものですから、笑顔がゆがみますが大仕事である手術を終えていい表情をしていました。孫である私の娘が父の側で嬉しそうに走り回ったり、珍しい病室の中を無邪気に探検したりしていて、久々に穏やかな時間が流れているなあと感じていました。
人工肛門に排泄方法を変えた場合、お腹から出ている人工肛門を覆う袋を付けて便をキャッチします。その袋は装具とかパウチとか呼ばれていて、数日に1回交換しなければならないのですが、いずれ家に帰ってもできるように本人や家族がその方法を身に着けていかなければなりません。
父はまったく自分でやる気はなく、私や母にやらせるつもり満々、私たちも期待はしていなかったので、私と母で覚えていくことに。
「娘さんの働いている病棟って人工肛門の人ってきます?」
担当看護師さんに聞かれ「うーーーん、ものすごぉぉぉぉく、たまに?」
正直私は人工肛門のケアって激烈苦手な意識があって、職場で入院してくる患者さんがいるとうわぁあああ~って嫌だなぁ(ほんとごめんなさい)って思っていました。
でももうお父ちゃんのお腹にはぴょこって人工肛門が出てきていて、やらざるを得ない状況。恥を忍んでご指導いただきました。教えてくださる看護師さんたちも一体私がどれだけやれるのか、なんとなーく探りどれだけ指導すればよいのかもなんとなーく探り、で非常にやりにくかったことと思います。本当に感謝。
その中でも主任さんが担当してくださった日があって、ものすごく丁寧に、わかりやすく、私が看護師なんて知らないかのように教えてくださいました。私はとっても感動しまして、今でも私の人工肛門のケアは主任さんのあのご指導が基本になっているといっても過言ではありません!
「ほら〇〇さん(父のこと)、ここ抑えて、娘さんがやりやすいようにしてあげて、最後にシールのとこ貼ってもらったら抑えるのは〇〇さんの仕事だよ」
など、やってもらう気満々の父のお尻を叩き、いい顔したい父はなんだよ~みたいな感じで従います。指導もその気にさせるのもうまい!
「娘さんが看護師で心強いね〇〇さん」
父ははにかんで笑っていました。
ご飯も始まって、少しずつ形のあるもの、硬いものになっていって、久々にちゃんとしたご飯食べた~とか言いながら、麻薬を開始していただいた効果もあり痛みも抑えられ、数日穏やかな時間を過ごしていました。
しかしある日、人工肛門を交換しているときに看護師さんが「あれ?」と言ってほかの看護師さんを連れてきて、それでも判断できずぞろぞろと数人の看護師さん達が父の人工肛門を観察しにきました。なんだろう?と思っていると、通りすがりの先生を呼んできて診てもらっています。
看護師「先生ここ赤くなってるんですけど…どうです?」
医師「ほんとだ、術後何日目だっけ、ここ痛いです?」
父「いてて、痛いです」
人工肛門のまわりをぐいぐい先生が押して父が痛がります。
医師「うーん、今のところなんとも言えないな~とりあえず様子見て、明日主治医に診てもらって」
なになになんなの?人工肛門の経験が浅く何がいいのか悪いのかわからないし、とりあえず様子を見ることになったようなので、そんなに気にも止めずにいました。
しかし翌日、主治医の先生から
「ここなんですけど、どうも膿んでるみたいなんです」
人工肛門周りのだいたい時計でいう1時~2時くらいの間が膿んでいるようで、なんなら皮膚の下に潜り込む形で穴が開いているらしい???(わっかりにくいので、いつか図を書いて貼付しよう…)
「抗生剤を始めて、毎日洗浄していきますね」
おぉ、なんかえらいことになってる?正直人工肛門の周りが膿んじゃうような人は看護師としての経験上見たことなくって(経験数もめちゃくちゃないんですが)、穴も開いてるって、わけわかめ(古い?)
でもね、人工肛門のトラブルはこれだけじゃなかったんですよ…涙
続きます
父が大腸癌で人工肛門造りました
平成30年9月7日父は人工肛門を造り、中心静脈ポートを埋め込む手術を受けました。
前回の記事です
当日私は仕事で、職場の病棟は走り回るほどの忙しさ。
手術は夕方だったので、なんとか仕事を終わらせたかったのですが、終わる気配全くなし。出棟の呼び出しを病棟にしていただけるということで、予定時間の16時に差し掛かる頃、ドキドキしながら仕事をしていました。
「ごめんね、お父さんの手術の時に抜けさせてあげられなくて…」
そうやって、その日一緒に働いたスタッフから声をかけてもらえたのがうれしかった。こちらこそ、私事で迷惑をかけているのに。それに私は自分の職場だから、すぐに駆け付けられるけど、普通の人だったら仕事を休んできて、じっと手術が終わるまで待っていなければならないから…。恵まれていると思うようにしました。
16時半頃、そろそろ手術室に出発すると担当の看護師さんから連絡がありました。仕事が終わりきっていない上に夜勤への引き継ぎの忙しい時間。他のスタッフに時間をもらって、父の病室へ駆け付けると父が痛みのために体を傾けて車いすに乗っていました。母も部屋にいてちょうど出発するところでした。母の足が悪いため、ゆっくりと進みます。
いよいよだ…
今まで散々自分が送り込んできた手術室に父が向かっていく。「まな板の上の鯉だ」と父は笑っていたけど、きっと初めてのことでものすごく緊張していたと思います。手術室の手前に家族控室があり、私たちはその部屋の前で父と別れました。看護師さんに車いすを押してもらい、痛みで傾き丸まった背中が扉の向こうに消えていくのを見つめていました。
しばらくして父を送ってくれた看護師さんが出てきました。一緒に父の病室まで戻り、母を病室において仕事に戻りました。相変わらず職場である病棟はバタバタとしていて、抜けさせてもらったお礼を言って仕事にとりかかります。でもなんだかそわそわして落ち着きません。あぁ、患者さんを待つご家族も一緒に戦っていたんだな…と実感していました。
あの父ががんばっている、2時間程度と聞いていたけど、もっと早く終わるかもしれない。病室で待っている母の側にいたい。とにかく自分の仕事だけ終わらせて先に上がらせてもらい、病室へ向かいました。私服に着替えて売店に寄り、病室を出て休憩所にいた母と合流し、おにぎりを食べながら待っていました。
手術が終わったのは約1時間半くらいだったでしょうか。ちょうど夜勤の看護師さんがご飯を配り始める時間の18時ころで、忙しい時間に申し訳ないな…と思った覚えがあります。
父のお迎えに一緒についていき、お迎えに行ってもらっている間に先生から手術の説明がありました。家族待合室の一角に面談室があり案内されました。ホワイトボードにとてもきれいに絵を描きながら先生はわかりやすく説明してくださいました。面談室の中は見たことがなく、こうなっていたのか!と父の手術が終わったことも加わって、妙に興奮していました。
「手術は無事に終わりました。人工肛門と右利きなので左の鎖骨の下のところにCVポートを埋め込みました。人工肛門を造るときにお腹の中をのぞいてきたのですが、腹膜というところに数か所癌が飛んでいるのを見つけました。少し様子を見てお水を飲み始めて、問題なければ食事を始めていきます。食べられそうであれば少しずつ硬いご飯にしていって、一刻も早く抗がん剤をやりたいと考えています。ご飯が食べられて、人工肛門のケアの仕方を覚えられればいったん退院か、最初の抗がん剤を行ってから退院にするか考えていきます、また相談させてください。あと痛み止めを飲んでいますが、あんまり効いていなさそうなのでご飯が始まったら医療用の麻薬を使っていきますね。あと…」
一通り手術の状況と今後の予定を説明された後、先生はいいにくそうに
先生「お父さん、手術終わって麻酔が覚めた後少し興奮してしまいまして…」
私「まじかーーーー」
先生「結構な力で起き上がろうとするものですから何人かで抑えて、ちょっと危ないんでおしっこの管抜かさせてもらいました。おしっこ、おしっこって言ってたから管の刺激だったのかな?あと夜中混乱して人工肛門とか触ったりすると危ないんで、抑制の同意書(安全確保のために縛るなどしてもいいよという同意書)もらっておいてもいいですか?」
私「すみませんでした…」
麻酔から覚めた父は寝ぼけて暴れたようで…。確かになんとなく先生の長い髪が乱れている気がする…。先生はにこにこしていてくださいましたが…。
術後せん妄と言って、ものすごーく簡単に言うと麻酔から覚めた後とか病室に戻った後混乱して暴れたりとか点滴抜いちゃったりとかする方いるのですが、あぁお父ちゃんやっちまったのか…。確かに家でも寝ぼけて暴れたりソファから飛んだりすることあったな…。これはまずい、今晩お泊り付き添いか?
正直自分が看護師として働いているときに、そういう患者さんがいると目が離せずほかの業務が回せなくなりものすごーく大変なので、病室に帰っている間、お泊りになったら娘はどうしよう、お母さんを付き添わせる??明日は休みだよな…とか父そっちのけで色々考えていました。お父さんごめんよ…。
できたてほやほやの人工肛門についてるパックを剥がしちゃったり、点滴抜いたり、安静なのに起き上がったり、多大なるご迷惑をおかけするのではないかという新たな不安を抱えとりあえずしばらく付き添い様子を見ることに。
父は爆睡。時々もぞもぞしだして起き上がったりしないかとどきどきしながら母と父を見つめる。寝ていって、ほっ…。看護師さんが時々やってきて検温していってまた帰っていく…。
時間がたつと段々と麻酔が切れてきて、何か話だします。
「んあ?なんだ~ここは~」
発言がやばい、母と私で手術終わったんだよお疲れ様、寝てていいよというと寝ていき…。何回か繰り返していくうちに
「なんだ、手術終わったのか、口乾いたな~」
目が覚めてきたのか、正気が戻ってきたかも…?
手術の数時間前から水分もとっていないので口も乾いたでしょう。まだ飲めないんだよと伝えると、そうか…とつぶやき
「もう遅いだろ、今何時?遅いから帰れ、ちーちゃん(娘、父にとっての孫)が待ってるだろ」
「おにいちゃん(私の夫)にも悪いことしたな~」
いつもの調子で話ができるようになってきた模様。しかし、このじーさんは私と母にはなんも言わんのかい!
大丈夫そうかも…ということで、何かあったらいつでも付き添いますので連絡くださいと看護師さんにお願いして帰ることにしました。21時は回っていたかな…。
その夜はいつ父が暴れだして付き添ってくださいという電話が来るかどきどきしましたね。パパと娘の寝顔を見てしばらくもぞもぞしているうちに、いつの間にか寝落ちしてたけど…。
朝まで連絡がなく、母と大丈夫だったんだよね…?と確認。死ぬほど看護師さんにご苦労かけていないか…その日面会に行くのもどきどきだったな。
続きます(下の方に少し笑った余談あります)
【余談:手術を待っているときに…】
私の母はとにかく明るい少し天然?な感じの人。小児まひで子供のころから右足が悪いのですが、その分口は達者だし、気が強いところもあります。でもとにかくユーモアあふれる人、父の闘病中もなんとか明るく過ごせたのも彼女のおかげでした。
そんな彼女が一人で手術中の父を待っているときのお話。
「ちょっとトイレの扉がすっごく重くて開けられなくってサ。ヤバイ閉じ込められたと思ってがちゃがちゃ言わせたら看護師さんがいたのか、きゃって叫び声あげて出て行っちゃた、誰もいないと思っていたらお化けでもいるかと思って怖かったよねぇ、可哀そうなことしちゃったな~引き戸じゃなくって開く扉だったんだねぇ」
母なりに緊張はしていたかと思いますが、こうなったら仕方がないと堂々としたもので。きっと手術のお迎えの準備をしていた看護師さんが誰もいないと思っていた部屋のトイレが急にガチャガチャ言い出したら怖かったでしょうね…。開き戸を引き戸と勘違いし、開かなくてちょっとパニックになった母。しかも1回だけでなく、父が帰ってきてからももう一度、開かないどうしようってなってたそうで、麻酔で意識もうろうとする父が「なにやってんだ」って言ってきたそうです。おかーさん、さすがだね。
父が大腸癌で手術をすることになりました でもそれは癌をとるためではありませんでした
平成30年9月
大腸癌のステージⅣと診断され、告知された父は思うところもあったかと思いますが、痛みや便が出ないことの原因がわかり晴れ晴れとした表情にも見えました。
家に帰るのを目標に手術をしてもらうことにし、消化器内科で入院していましたが、消化器外科に変わることになりました。病棟も外科病棟にお引越ししました、今後この病棟は何度も父がお世話になる病棟になりました。
前回の記事です↓
外科の先生のお話を聞くために父と母、私の3人でお話を聞きに診察室に伺いました。
やはり大腸癌で肺や腹膜など遠くの内臓にも転移しており、ステージⅣと診断されること、まずは食事をとれるように人工肛門を造り便が出せるようにすること、そして化学療法をしていくことを話されました。大体同じようなことを消化器内科の先生もお話してくださったので、すぐに理解することができました。
父が座っていると痛むので体勢を何度も直している姿に気づいた外科の先生は「担当する先生がまた手術の詳しい説明をしますから、病室に戻って休みましょうか」と気遣ってくださって病室に戻りました。
入院してすぐに痛み止めのロキソニンを出してもらって1日3回を毎食後に飲んでいました。最初のうちは効いているようなことを言っていましたが、動くと痛みを訴えており、あまりしっかりと効果があるように感じませんでした。もっと強い薬、医療用の麻薬も使わせてもらった方がいいのかなと思いました。腰の骨に転移があります、骨の転移はとても痛いと聞きますし、そういった患者さんを何度も見てきました。
翌日、新たに主治医となってくれた先生から父と私は手術の詳しい方法と、今後の治療のメインとなる化学療法について説明してくださいました。その先生は、若い女性の先生でした。とてもはきはきとして元気で、声がかわいらしくて、とても患者さん想いの優しい先生でした。
手術について下のように説明されました。
- 転移がありすぎるので、すべての癌をとることはできない
- ので、大元の癌である大腸の癌もそのままにする(とっても意味がない)
- 癌と少し離れた問題のない腸を切ってそれをお腹の壁に持ち上げてきて人工肛門を造る
- 今後化学療法を行うために中心静脈ポートというものも一緒に造る
- 抗がん剤治療は、延命のために行う、いずれ効かなくなる、副作用で辛くなったり食べられなくなったりしてきたら変更する、どこかで終わりが来る
手術は癌をとるためではなく、癌で便の通りが悪くなった状況を人工肛門を造ることで改善しようというものでした。また、中心静脈ポートという、鎖骨の下に点滴を入れるための駅みたいな人工物を埋め込むことにもなりました。今後行っていく化学療法のためにです。
大腸にある癌をとらないこと、化学療法もいずれは効かなくなる、終わりが来るというお話の内容が、遠回しにあまり長くは生きられないんだな…と言われているようで切なくなりました。父はどれほど理解できているのか…。
主治医になってくれた先生は、毎朝早くから様子を見に来てくださって、明るく話しかけ父もとても信頼していました。本当に元気で優しい先生でした。外科の先生ってちょっと怖い先生が多いイメージだったので、相談しやすく私も本当にありがたく思っていました。
手術を迎える前に追加の検査や麻酔をかけてくださる先生に受診したり準備を進めていきました。
人工肛門を造るのにストーマサイトマーキングって言って、お腹にマジックで落書き(失礼)されました。今のお腹撮っておこうねって、写真撮っておいたな。スマホの写真って大きい…汗
赤い点が実際に人工肛門を造る候補のところです。お腹の皺がなくてズボンをはいた時にあまり邪魔にならないとか、座った時に見えるかとか、人工肛門とお付き合いしていくのに最適なところを探すしてそこを目印に造られます。父は右上のところ(写真に向かって左上)に造ってもらいました。
そして、平成30年9月7日の夕方、父は手術を迎えました。
余談なのですが…
実は父、歯磨きを全然しない人で、68歳という若さで歯が下の歯2本しかなかったんですよね。まるで鬼っ子みたい。
麻酔は口から人工呼吸器につなぐチューブを入れる(挿管といいます)ので、口の中の状態を先生が見たがります。でも父は恥ずかしいので見せたくない…。手術の前の日は麻酔科の先生に見せて、手術室の看護師さんに見せて、救急救命士さんが挿管の実習をしたいということで見せてほしいということで見せて…。同じ日に3回も!あの時は笑ったな。
2本の歯をぐりぐり触られて「あ、意外に丈夫ですね」なんて言われて×3回、管入れるときに折れたり抜けたりすると危ないからさ、残念だったねお父さん。
観念した父の顔が今でも思い出されます。
続きます
大腸癌と診断されるまで④ ついに大腸がんと診断、全身に転移 ステージⅣでした
平成30年8月末、父は検査入院しました。
本人はどうして入院するのかわからないといった風ですが、家でひっきりなしにトイレに行ったり食事もどんどん食べられなくなる、「尻が痛い」と何度も言っていたので、やっと病院に行き入院した…と家族はほっとしていました。
その反面、CTの結果で大腸以外にも「できもの」があることがわかり、きっと癌で体中に転移しているんだろうなと思うと、これからどうなっていくのかなんとも言えない漠然とした不安が常につきまとっていました。
前回記事です↓
入院してからも、 外来で見ていただいた、私がものすごく尊敬している先生がそのまま主治医になってくださいました。ものすごいスピードでテキパキと検査の計画を立ててくださったり、わかりやすく説明してくださったり、本当にありがたかったです。
造影剤を使ったCT、お腹の超音波検査など簡単な検査をし、入院から数日したころ大腸カメラを使った検査をすることになりました。大腸カメラを実施する日には本人の妻である私の母も呼ばれ、検査後に一度医師とのお話をしましょうをいうことになりました。
大腸カメラ検査の日は確か仕事で、検査は夕方から、仕事が終わってから職場の付属の保育園へ娘を迎えに行き、タクシーできた母と検査室前の待合室で合流した覚えがあります。
検査後の先生からの説明で娘がむじゃきにはしゃいでいた覚えがあります。
結果は肛門から少し入ったところに10㎝程の腫瘍が腸に巻き付くようにあって、カメラがギリギリ通るか通らないくらい、非常に狭くなっていたということでした。見せていただいた大腸カメラで撮った写真をみて、母と私は「あれはあかんと思ったよね…」と家で口をそろえて言ったことを覚えています。見るからにグロテスク、あぁ…こんなに癌が…、それは辛かったよね…
先生からは「大腸癌」で間違いなさそうということ、このまま癌が進行するといつか詰まってしまうこと。そうでなくても便が出なくてつらいので、腸を広げてあげた方がいいこと、それには手術か、腸を広げる金属を入れるか選択肢があるが、金属はいつか癌が進行してからみついてまた狭くしてしまう可能性があること…を説明していただきました。
手術をするにしても、ぎりぎり人工肛門を造らなくていいかどうかというところなので、一度外科の先生に相談してみますということでした。
また、CTの画像で肺、肝臓、腹膜、腰の骨にも転移がありそうということで追加の検査で癌がどこに転移していそうかPET-CTを行うことになりました。
そして色々わかったところで後日本人を含めて病状や今後の方針について説明していただくことになりました。
この時点で父にはまだはっきりと知らせていません。やっぱりできものがあったよ、きっと癌だからもう少し検査することになったよ、手術になるかもしれないよ…とだけ。
本人は「まだ検査するのか、いつになったら帰れるのか」と言ってしましたね…、まだまだまだ帰れなさそうな状況はとても言えませんでした。
入院中は、癌で細くなった大腸を便が通りやすいように、ほとんど固形物の入っていない三部粥にしていただき、お腹や肛門の痛みもあるため、痛み止め(ロキソニン)の内服を始めていただきました。 食事の好き嫌いが非常に多く、ヘビースモーカーの父、身の回りのことは母にやってもらっていましたし。外面はものすごくいいから、先生や看護師さんにいい人であろうとして、遠慮もしていただろうから、自由にできる家にすぐにでも帰りたかったのでしょう。
そして病状説明まで、母と私は何度も話し合いました。偏屈な父ですから、病状説明の時に手術になる、人工肛門を造ることになるかもしれない、という説明に納得できず拒否するのではないかと考えていました。何もしなければ家に帰ってきても状況は変わらずまた逆戻り…。先生とどこどこで会ってちらっと聞いたけど、手術になりそうということは何とか話せましたが…、後のことは先生にお任せすることにしました。
9月に入って数日したある日、いよいよ先生にお話をしていただきました。
大腸癌であり、肺、肝臓、骨、腹膜にも転移がある。ステージⅣである。
転移があって手術で取りきることはできないので化学療法が中心の治療になる。
だけど、癌のせいで腸が狭くなり便が出にくい状態。今後の生活のことを考えると狭い腸を広げる必要ある。外科の先生と相談して手術はできるが人工肛門を造ることになるだろう。狭いところに金属をいれる方法もあるが、いずれ癌が進行してつぶれていく可能性がある。
父は黙って聞いていました。時々質問もしていました。
そして先生は続けました。
「手術をすることになるなら、外科へ依頼していきます。化学療法も外科でやってもらいます。大腸癌は化学療法が効きやすい、だから私も外科に依頼をかけられるんですよ。娘さんは看護師さんですから、人工肛門の世話も必要になってくるんですが、心強いでしょう」
正直人工肛門のお世話は非常に苦手意識がありましたが「任せてお父さん、私がやってあげる」と言っていました。私も頑張る、お父さんもがんばってほしい。
先生の化学療法は効果がある、人工肛門もなんとかなるという説明が良かったのか父は「やるしかないね…」とつぶやき、思っていたよりも全然素直にやると言ってくれました。私たちも先生の言葉に、長くは生きられないかもしれないけれど、人工肛門を造って、おいしいご飯を食べて、痛みがとれて、いつか故郷の石川県に連れていけるかなと望みをもてるようなお話でした。
今でも担当してくださった先生に感謝の気持ちでいっぱいです。本当にお忙しい先生なのに、どの患者さんにもそうなのですが、迅速に的確に対応してくださる先生。手術を見越して手術前の検査もほぼ終わらせてくれていました。病状説明の時、膝の上にいた娘が机をぐいぐい蹴って先生のほうに押されそうになってもニコニコとしていてくださったな。先生のおかげで家で泥仕合をしていたのが、次のステップに進めた。
あぁ、そういえば病状説明の時、2歳だった娘も察したのか静かにいい子にしてたな…。
後日先生の記録を読んだとき、父は涙ぐんだように見えたと書いてありました。
もともと自分の気持ちを多く語ろうとはしない人です。誰よりも長生きすると豪語していたのにいきなりステージⅣの告知。そうだよね、そうだよね…。でも、苦痛の原因がわかって、いい顔してたよね…。
外科の先生に紹介していただき、予定を決め、いよいよ外科転科し手術へとむかっていくことになりました。きっと今よりはよくなる、家族で頑張ろうと思っていました。
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大腸癌と診断されるまで③ 総合病院へ受診、速攻で検査入院になりました
8月の終わり、紹介された私の勤める総合病院に父を連れて受診しました。
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私の勤める総合病院は、地域ではそれなりに大きな病院で、通院患者さんは日々2000人ほど来院すると聞いたことがあります。
そんな病院ですから待ち時間が長く、施設も広く、疲弊しきり痛みを訴える父を連れていくのは不安しかありませんでした。
車椅子に乗るように促しても、体裁を気にする父は格好が悪いと乗ろうとしません。
…が、歩くことはなんとかできても、その頃は腹痛だけではなくお尻の穴が痛いと言うようになってきてました。そのため座っているのがとてもつらいようなので、車いすも辛いと思ったのかな…。待ち時間椅子で座っている間も「いてて…」と何度も体勢を変えて過ごしていました。
加えて相変わらずトイレにひっきりなしにいくものですから、いつ呼ばれるのかわからないしタイミングを見てトイレに連れて行くのも冷や冷やしていました。
受付で呼ばれ身長や体重を測ったり、診察室の前に行ったり。
待っている間、どの先生に診ていただけるのか緊張していました。
自分の働いている病院、以前消化器内科病棟で働いたこともありますから、医師のこともなんとなく知っています。
どうか偏屈な父と上手くやっていける先生でありますように…。医者より自分のほうが優れていると思っている人です、変にへそを曲げて大切な治療を急にやめるとか言い出したりしかねない…。
診察室に呼ばれた時、ものすごくほっとしました。
…というか、私が消化器内科で一番信頼している先生が座っているじゃありませんか!
担当してくださった先生は私を見るなり、おっといった顔で「娘さんなの」と言って、素早く紹介状を確認し、診察してくださいました。診察台で肛門からエイっと診察されて先生はうーんって顔をしていました。父はあうって声出して苦笑いしてましたね…。まあこの時は父も私も笑っていられました。
父は人見知りなこともあり、家での状況は私がほとんど説明しました。
「レントゲンだけじゃわからないからCTをとりましょう、腎機能って悪いって言われたことある?」
「最近おしっこが出にくかったり足がむくんでいることもあるので…。病院には仕事を辞めてから健診もしておらず、正直わかりません」
そう、父は定年を迎えてから一度も健診を受けていませんでした。ほかにも病気があるかも全然わからない状況。
「じゃあ、ちょっと怖いから単純のCTにしておくね」
腎臓の機能が悪い場合、造影剤を使用するのは腎機能をさらに悪くするためためらわれます。そのため造影剤を使わないCTに。
診察室を出てCT撮影へ。自分の病院だと場所もすぐわかって便利だな…なんて思いながら父を案内しました。
CT撮影に採血、レントゲン撮影が追加。とにかく大きい病院は待ち時間が長いというのを体験。1つ1つの検査をとにかく待ちました。身体が辛い時に、待つのって本当に苦痛。父も痛みもありますしトイレも行きたくなりますから待ち時間はひたすらに苦痛。1時間くらいかけて診察室へ、また呼ばれるのを待つ。元気な私ですら疲れてきます。
再度診察室へ。すでに朝来てから、お昼になるころでした。
採血を見て特に問題はなさそうなところ。
レントゲン結果は近所の病院での説明と同じで、便とガスがたくさんたまっていそうなこと。
最期にCT結果を写真を見ながら説明していただきました。CT結果にはレポートというものがあって、結果を文章でまとめてあるものがあります。カルテ画面に映っていたのでなんとなく見ていると…
【大腸に10㎝の腫瘍、肺、肝臓、骨、腹膜にも腫瘤があります…】
もっと長かったし、詳細の内容ははっきりと覚えていませんがこんな感じの内容が…
え?そんなに?まさか転移…?頭の中は真っ白に
先生から
「肛門から少し入ったところに10㎝くらいのできものがあって、それが腸を狭くして便の通り道を狭くしているみたいです。だから便が出にくくって、出せても少しずつ細い所を通って出てくるんですね。食べても詰まってしまうからすぐにお腹もいっぱいになるし、押されてトイレに行きたい感じがずっとしているんでしょう。さっきお尻を触れた時に血が付いたから痔かなと思ったけど、その先にちょっと触れるものがありました、きっとそこから血も出ているんでしょう」
ここまでは予想通り、先生は画像を出しながらお話を続けます。
「CTを撮ってみたところ気になるのは肺に少し影があって、あと肝臓にも小さなできものもありそう、腹膜と言ってそこにも数か所影が見えます。骨も…この辺かな、少し色の違うところがあるでしょう、この辺もなんなのか調べていく必要がありますね。」
癌とははっきりとは言わないけれど、先生のお話に頷くばかり。
「今後検査をして何かわかってから必要なら治療を始めていこうかと思いますが…ずいぶん辛そうだし、入院しますか?」
父は診察が終われば帰れるものと思っていたようなので「え?」という顔。
私としては状況によっては入院もと思っていたので、疲弊しきり痛みを訴える父にぜひしっかりと治療を受けてもらいたいと思い父に入院を勧めます。
先生から優しく、穏やかにそして今後検査をしていくことなど説明されしぶしぶ納得、入院となりました。
診察室の前へ出て、ベンチに父と座りながら入院の手続きをしてもらうのを待ちました。
涙をこらえるのに必死でした。単に腸に癌があって手術すれば、人工肛門を造るのなら家族でがんばろう、と思っていたけどまさか、まさかあんなに体中に転移しているかもしれないなんて…。
長くないかもしれない
ふと、心の中でよぎってしまいました、そう思うと涙がにじんできます。
時々知り合いのスタッフも通ります、私に気づいてどうしたの?なんて声もかけられます。父の受診についてきたんです~って笑顔を作るのに精いっぱい。
入院前に点滴をとるために処置室へ、入院する部屋が空くのにしばらく時間がかかりそうということで父は処置室のベッドに横になって待たせていただきました。点滴をしてくださったのは依然一緒に働いていて、とてもよくしてくださった上司でした。
「あら、看護師さんのお父さんって聞いてたけど、あなただったの。名字が違うから、気づかなかった!そっか~お父さんだったんだね。」
ニコニコしてほっとする方でした、涙腺が危なくなりました。
父は「どうして入院するんだ?」と聞いてきますが、家であんなに辛かったし点滴もしてもらえるよ、痛いのもみてもらえるよ。しっかり見てもらわないといけないよと伝え、理解したようなしないような…。とにかく病院が苦手な人、初めての入院、内弁慶の人だから家にいたくて仕方がありません。
私はいったん準備のために家に戻りました。母とは同居していて、状況を伝えました。母も想像以上の結果になりそうで非常に驚いていました。ただ母は強い人で取り乱すこともなく、いろいろ考えないといけないね…とつぶやいていました。
そう、これからどうなっていくのかわからない、私は一人っ子だし、母は足が悪い、私には幼い娘もいる。
しっかりしなきゃ…しっかりしなきゃ…
とばかり考えていたように思います。
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大腸癌と診断されるまで② 病院に行くまでが父との最初の戦いでした
平成30年夏
7月22日は父の誕生日。68歳になりました。
振り返ってみると日曜日だったのですね。
ケーキを少し買ってきて、父の好きな食事にしていたと思います。
思います、というのは、
父は相変わらずリビングのソファとトイレの間を往復の毎日。父の誕生日をゆっくりとお祝いできる余裕もなかっただろうし、正直言って記憶がほとんどありません。
少しでも食べられるように、好きなものでお祝いしたような「気がする」のです。
まさか最後の誕生日になるなんて思ってもいなかったから、病院に行って病気が落ち着いたら、また楽しくお祝いができる、来年そうしようと思っていました。
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